吉備池廃寺・磐余稚桜神社安倍の文殊院から吉備池廃寺と磐余稚桜神社へよってから磐余池跡へいくつつもりだったのに、気が付いたら磐余池跡(御厨子神社)に来ていたというのは不思議なものです。ちゃんと地図を見ながら歩いていたはずなのに…。 でも、一番行きたかった磐余池跡に早い段階で行けたのでちょっと嬉しい気分。 では次は、吉備池廃寺を目指します。 吉備池廃寺というのは今ではもうなくなってしまっているのです。 池の真下に沈んでしまっています。 以前、池の水を抜いて調べたらその下から出てきたらしいのです。 つまり、池の下にが沈んでいると言うことです。 先輩はどうしてもここを私に見せたかったみたいです。 春日神社の直ぐ横です。 地図を見ながら歩いているのになかなか見つけにくいところにあるようです。 その道すがら、なんだかとても気になる場所がありました。 小高い丘に、ものすごく高い木が何本かあります。 その下にある建物はとても不思議な感じがするのです。 私はどうしても、そこが気になり先輩にあれは何? と、聞くのですが、一生懸命地図を見ている先輩は、方向が違うよ吉備池廃寺は反対側と取り合ってくれません。 そりゃそうです、今はそれより吉備池廃寺に行く予定なのです。 ん~、それにしても気になるなと思いながら吉備池廃寺を探します。 なんどか、地元の人に聞きながらついにたどり着くことが出来ました。 地図の通り春日神社の直ぐ近くです。 私も、話に聞いていたのでその場所にたつことが出来て感慨深いものがありました。 今では池になってしまっているので、有名な割にはあまり見に来る人もいないのかもしれません。 しかし、確かにここに太古の人たちが愛したお寺があったのです。 こんな池をみて感動しているのは、私たちくらいかもねなんて笑いながら先輩と私は、次の磐余稚桜神社へと向かいました。 もと来た道を戻る形になります。 地図を頼りに歩いていくと、磐余稚桜神社は道を挟んで吉備池廃寺の反対側になります。 え~っ、もしかして磐余稚桜神社ってさっき私が気になって仕方がなかったあの建物ではないでしょうか。 歩いていくとまさに、その方向。 ばっちり大当たり。 私が気になって仕方がなかったのはもしかしたら、こっちにおいでよと、呼ばれていたのかもしれません。 とにかくドキドキしながら小高い丘を登っていきました。 ありました。 確かに磐余稚桜神社(神功皇后宮跡)です。 日本書紀によると、「神功皇后三年春正月磐余に都したまう。これを稚桜宮という。また履中天皇元年春二月壬午(みずのえうま)のついたちに皇太子(履中天皇)磐余に都つくり十一月に磐余の池をつくりたまう。」とあります。 桜井の名のゆかりであり、桜が舞いちって天皇の盃に入ったという市磯(いちし)の池での宴遊もこのころのことなのです。 市磯の池については稚桜宮の内裏の前といい、現神社東側の水田がその跡にあたるそうです。 ちなみに『古語拾遺』ではさきの神功皇后の世を磐余稚桜朝と称し、あとの履中天皇の世を後の磐余稚桜朝としるしています。(桜井風土記より) 祭神は気息長足姫命(神宮皇后)、出雲色男命、去来穂別命です。 履中天皇(仁徳天皇の皇子)が酒宴の時に杯に桜が舞い散ったことによりこの磐余稚桜神社を建てたとは素敵なお話です。 また、桜井名前のゆかりとも知りちょっと嬉しい気分です。 ここでに神功皇后がいて政治を行っていたのかと思うと感慨無量です。 少し小高いので、景色がよく磐余全体がよくみえます。 大変荘厳な雰囲気で、高い木は天にも届くようで私たちを圧倒します。 とても言葉では言い表すことに出来ないものすごい『気』のようなものを感じてしまいました。 『気』については朝日さんのブログで時々学んではいたのですが、自分で体験してみるととっても不思議な感じです。 ここでも、少しの間、離れることの出来ないくらいの感動です。 誰もいない境内で先輩と二人、くるくると歩き回って説明書きを何度も読み返したり、神功皇后、履中天皇、物部氏(祖先の神様と関連があります。)について話し合ったりしました。 さて、少し落ち着いたので、次を目指すことにします。 次は、山田寺跡と飛鳥資料館です。 ジャンル別一覧
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